色見本「海軍航空機用塗料識別基準」とは何か?
昭和13年11月28日付にて、帝国海軍航空本部は、軍用航空機の塗装標準色を定めました。その時に定められた色見本を「海軍航空機用塗料識別基準」といい、色見本帳(カラーチャート)として通称「仮規117」と呼ばれています。この色見本帳「仮規117」について、近年に完全な形ではない(全54色中、現存42色)ものの、比較的良い状態で現存しているのが発見され、当時の塗装色に関する研究・解明に非常に大きな影響を与えたとのことです。零式艦上戦闘機(以下:零戦)などの内外塗装色で、「E4」や「J3」等と表記された他の資料がありますが、これらの番号は、皆この色見本帳「仮規117」に記載されている番号と一致するものと推測されています。
零戦の初期迷彩塗色はどんな色?
帝国海軍では昭和15年頃から、零戦に先立つ当時の制式艦上戦闘機として採用されていた九六式艦上戦闘機の塗粧規定である、カウリング防眩塗粧(黒色Q1)とそれ以外の機体全体の「銀色」塗装(下塗り:灰色)から、機体全体「銀色」塗装のみを「灰色J3」に変更しました。これは、この直後の大東亜戦争開戦のタイミングから考慮して、従来の洋上での演習時における視認性や事故時の機体発見等を容易にする保安性を考慮した塗粧から、実戦を視野に入れてより敵機から発見されにくい非メタリック塗粧へ、マイナー変更されたものと推察されます。よって、昭和15年7月24日に制式採用された零戦は当初から昭和18年中頃までの初期迷彩色として、カウリング防眩塗粧(黒色Q1)とそれ以外の機体全体「灰色J3」とする塗粧規定で量産されることになりました。
"「灰色J3」"ってどんな色?
前置きが長くなりましたが、結論を先に述べると「灰色J3」は、単純に白に黒を混ぜて調合された「明るい灰色」とのことが最新の情報です。ただし、三菱製の零戦カウル黒色が、青味のある黒色に退色し易いように、使用している黒には少し青味が含まれているようです。ですので、当時のラバウル基地配属の某パイロット証言記事から「灰色J3」は、少し青みがある明るい灰色で、米軍F16ファルコンのライトグレー(クレオスNo.306:グレーFS36270?)に近かったとのことです。
零戦の初期迷彩塗色は2種類あった?
特に「灰色J3」で機体全面を塗粧された初期生産の零戦21型については、開戦当初しばらくの間は、生産工場で海軍からの発注納期順に組まれた、地上基地配備機と空母搭載機とを区別したスケジュール通りに計画生産されたと考えられます。その目的は、それぞれの配備先環境の違いを考慮した生産上の作業工程の合理化にあり、主に中国大陸や台湾等の南方前線の地上基地配備機の塗色は、この「灰色J3」ままで工場から出荷されましたが、常に海上運用を行う空母搭載機の場合は、特に塩害や防錆について配慮する必要があり、この「灰色J3」の上に透明なワニスを上塗りしてあったとのことです。尚、この透明ワニスについて、その透明度はそれ程高くなくやや黄色味がかっていたらしく、空母艦内においては整備兵が毎日、塩分や汚れを拭き取るためピカピカに磨き上げられていたため、全般的にアイボリーに近い色に見えたとのことです。これらのエピソードから推測すると、最終工程での仕上げ方法の違いから、零戦初期の迷彩塗色は結果的に2種類存在することになったと考えます。
また、戦況悪化に傾く昭和17年10月の南太平洋開戦前後にあたる、第1次ソロモン沖海戦から第3次ソロモン沖海戦の期間で、当時のラバウル基地では作戦上で急遽、航空兵力の増強が必要となったため、苦肉の策として空母「瑞鶴」の艦載機をラバウル基地へ大量配備することになりました。このため、ラバウル基地内の零戦は、従来の地上基地配備機(「灰色J3」ままの塗粧)と空母搭載機(「灰色J3」+透明ワニスの塗粧)とが混在することになります。また、南方の強烈な日差しや外気の影響を受けて空母搭載機の外装色は、次第に透明ワニスの黄変化が進み変色したこともあり、零戦の外装色は個々の機体により異なる色味が増すことになったと推測されます。また、夕日等の光の反射加減で表面の透明ワニスの黄色味のみが強く見えることもあり、タン色(淡黄褐色)にも見えたとの証言記事も読んだ事があります。よって、当時ラバウル基地での目撃者談で零戦外装色の色味について、整合が取れないのはこれが原因になったのではないかと考えます。
零戦の初期迷彩塗色における"明灰色""灰緑色""飴色"説、謎の真相は?
一般に塗膜は、紫外線他の影響を受けると劣化し、その表面部分の塗料成分が分解されて徐々に白濁してきます。更に分解が進むと塗膜の艶が完全に無くなり表面に白い粉が浮き出る「チョーキング現象」が生じ、塗膜が果たすべき効能(下地防錆や美観性等)が失われます。
地上基地配備機(「灰色J3」ままの塗粧)は、普段日中で野外の日照にさらされる時間が長いため、特にラバウル方面の南方戦線激戦区では、強い日差し他の影響(高温、多湿、潮風による塩害等)で塗膜の劣化化が進みやすい環境であったと考えられます。だたし、数年間程度の機材運用期間を考慮すると、「チョーキング現象」が生じる状態まで至らず、塗膜の艶に変化(艶感の低下)をもたらす程度であったと考えます。この影響があってでしょうか機体全体が、より白っぽく見えた可能性が考えられますので、零戦と空戦経験のあるアメリカ軍パイロットや現地で放棄された残骸機の目撃証言記事等の「零戦の機体塗粧は、ガルグレー(明灰色)が非常に近い色」に見えたのかもしれません。
一方、空母搭載機の場合は、普段は空母内格納庫で整備・保管されており、日照による紫外線劣化の影響を受けにくいのですが、機体塗装色「灰色J3」に上塗されている透明ワニスは、当時の品質の悪さから酸化により徐々に黄変化する傾向があり、また、後述する海軍伝統の機体全体への「油拭き」の影響も手伝って、下地「灰色J3」の青味と透明ワニスの変色が進んだ黄色味とが重なり、緑味かかった灰色(灰緑色)に見えたと考えられます。特に空母搭載機用の塗粧で生産された機体が、地上基地に配備された場合に、時間の経過に伴い顕著化したのではないでしょうか。
1990年代に初期零戦の塗粧に関する新発見と話題となった「飴色」ですが、その出典となった資料は、空技報0266号「零式艦戦迷彩に関する研究」(昭和17年2月 海軍作成)で、現用の戦闘機(零戦)の今後の塗色を決める為に行われた実験の報告書です。実験そのものは開戦直前の昭和16年11月から翌年2月にかけて行われていますので、支那(しな)事変における零戦11型の華々しい実戦デビューから1年以上も経過しており、かつ真珠湾攻撃に参加した零戦21型のほとんどが完成・配備された後の期間となります。本題の「飴色」は、この報告書で現用零戦用塗粧として登場した仮称の色名で、本文では、「現用零式艦戦用塗色は、J3(灰色)のわずか飴色がかりたるものなるも光沢を有する点、実験塗色と異なれり」と説明されています。現用零戦色に関する下り文章を素直に解釈すると、現用の零戦の色は、「灰色J3」と同色ではなく、近似色であったと読めます。因みに「飴色」について、正しくは「飴色がかりたる灰色」なので、単に「飴色」と記載すると誤解を招くのですが、報告書でも略して「飴色」又は「現用飴色」と記載されていますので、便宜上から「飴色」とします。更にこの「飴色」の色味として、現存機体の残骸に残された塗料色が「褐色がかった灰色」であったため、当時、某零戦研究家が動かぬ証拠として取り上げて誌面を賑わせていたのを覚えています。しかし、再現された色味は、当時の実機目撃者証言とかけ離れている点や、塗料の酸化や経年劣化による変色についての十分な検証がなされていない点から、現在では説得力を失っているようです。推測ですが「飴色」の正体は、先で述べた空母搭載機用に追加された透明(わずか飴色/褐色がかりたる)なワニス(光沢)を上塗りされた「灰色J3」を指していると考えると自然です。尚、下の写真は、某零戦研究家が発見した残骸に残された「飴色」を基に再現塗装された復元機ですが、「灰色J3」のイメージからかけ離れた、かなり濃い「飴色」となっています。透明ワニスの劣化がかなり進むと、この様な色になるのではないでしょうか。
このように零戦の初期外装色は、配属先や使用年期により少しづつ様々に色味が変わっていた様です。あと補足ですが、この空技報0266号における迷彩実験では、後の機体上面色の規定塗粧となる「濃緑色D2」が、最も迷彩効果が高いと判定されました。しかし、味方識別の容易性維持と前線現地での混乱リスクを回避するため、戦局が守勢にまわらない限り、現用色(飴色)のままとする決定となりました。結局、この実験報告の結果を受けて昭和18年8月に上面「濃緑色D2」、及び下面「灰色J3」の規定塗粧とすることに決定されました。
"パンダ・ゼロ"って何?
零戦の最初期の外装色において更なる謎を深める写真が残されています。それは、支那事変で中国大陸へ配備された有名な第12航空隊を撮影した数枚の写真で、昔から物議を醸し出している零戦11型の塗り分け塗粧です。
この写真では、機体胴体の日の丸中心を境に前後にハッキリした濃淡ラインがあるのを確認できます。また、解りにくいですが、主翼上面にも同様に20mm機銃の辺りで濃淡の境界が確認できます。このツートンカラーの零戦を指して「パンダ・ゼロ」とも言われています。この機体全体の濃淡の原因については、上塗りや調色塗装によるものとか、退色によるものとかと色々と情報が交錯しています。
「パンダ・ゼロ」の塗分け理由の考察
かなり昔に「パンダ・ゼロ」の塗分けに関して、当時三菱の工場で塗装に従事していた方の証言記事があって、非常に興味深かったのでメモに残していました。その内容を要約すると、零戦量産機の機体全体塗粧は、恐らく「灰色J3」であったとのこと。初期(通算36号機まで)の零戦11型の排気管口位置は、カウルフラップ1枚分上に設置されていることから、排気に混じったエンジン油が機体前半部分と主翼上面付根部分に付着することから、試行錯誤の末に定めた範囲を「灰色J3」塗料に防滑粉末(ラテックス・ゴム樹乳液+石綿等を混入か?)を混ぜたものを塗って仕上げたとのことです。この塗膜表面自体はザラザラしておらず、灰色味のトーンが少々黒くなったとのことです。その後、機体改修(通算37号機以降)により、排気管口は現代の我々が見慣れたカウルフラップ最下部分に移されたため、防滑を目的としたこの「パンダ」塗装は取りやめになったとのこと。この情報を検証してみると、この11型の初期タイプ(約30機)は、「パンダ・ゼロ」が確認できる中国大陸へほぼ全て配備されたこと。各機の塗装の塗分け位置が同じで意図(付着油への防滑対策)が明確なことから、十分説得力があると考えられます。
白黒写真では全景がつかめないので、上記の考証を考慮に入れて、独断と偏見で「パンダ・ゼロ」を過去に製作していますので簡単に紹介します。機体マーキングは、“敵機27機全機撃墜・全機帰還”の衝撃的な零戦隊実戦デビューの指揮官として有名な進藤三郎 中佐(最終)の搭乗機です。特に最初期の零戦11型の塗色については、塗色も含めて増加試作的な性格が強いと想定し、無彩色系のライトグレー(ガルグレー)としました。具体的には、従来の専用色を使わずに機体前部の濃灰色をクレオスNo.324:ライトグレー、機体後部及び下面等の明灰色をクレオスNo.325:グレーFS26440にて塗り分けました。
生産工場ロールアウト時の零戦は光沢なし仕上げだった?
零戦は、艦上運用する戦闘機ですが、初期生産型の11型は、当時の戦局都合で主に中国大陸等の地上基地へ配備され、空母搭載用の機体はマイナーチェンジされた21型で配備されました。その際、海上運用を考慮して塩害や防錆対策を行うべく、機体上面に透明塗料を塗布する研究・実験が行われていました。その適材を探す目的で亜麻仁油や酒油を塗ってた機体が幾つかあり、仕上りが青ぽっいような、緑ぽっいのような色に変色していたとの目撃者証言があったとのことです。少なくとも工場出荷時は、「淡い青磁色のような灰色」だったとの証言から「灰色J3」であったと考えられますが、仕上りについては、ピカピカの光沢では無かったとのことです。これは、現用ジェット機の塗装仕上げからも解るように、飛行時の日射の反射を抑えて遠方の敵に発見されにくくする処置であると考えられます。
尚、旧日本海軍では、軍艦本体も含め機械類の塗料を保全するため、油拭が敢行されておりピカピカになるまで磨かれていたとのことです。通常、この磨き油について、ボイル油と称される亜麻を煮た飴色がかった植物油で、防錆効果を期待して「赤鉛」が適量混和されていたとのことです。この海軍独特の習慣から、特に空母搭載された光沢なしの新造機は、整備兵により光沢が出るまで磨かれていたとのことです。一方、地上基地へ配備された光沢なしの新造機も、同様の磨きが行われていたとのことですが、戦況が悪化した昭和19年以降は、地上基地航空隊では機体を布で埃を拭き取る程度で済ますようになり、ボイル油磨きは行なわれていなかったとのことです。ただし、空母搭載航空隊では塩害・防錆対策のため、ボイル油磨き作業は継続された可能性は高いと考えます。この海軍伝統のボイル油磨きで、磨けば磨くほどに零戦の外装色は徐々に褐色化が進行したと考えられます。特に整備に時間をかける空母搭載航空隊の零戦は、上塗りのワニスも手伝ってピカピカの飴色(アイボリー)に磨き上げられたと考えます。
Fine
コメント
だいたい同意です。以下私見です。
チョーキングは要はベース塗料(バインダー)が白い粉になってしまうことなので、少し白っぽくなるとはいえ発色自体は元の色と同じになります(戻ります)。しかし運用されていた当時の機体には白化は起きないかと思います(米軍は、日本海軍の塗料の品質は高いと評価しました)。継時として元色、褐色、白化の順で、数十年単位での変化でしょう。欧米の自称研究家はバインダーが褐色になってしまったものを指差して「元色だ」と言いますね。全く不見識です。
三菱製のカウルの濃紺が黒からの退色というのはどうかな?という気がします。全体に三菱製のほうが丁寧な作りなので中島より安い塗料を塗っているとも思えないからです。
soundonly2様
コメントを頂きありがとうございます。
ご指摘頂きましたチョーキングに関して、当時の塗料との品質差がどのくらいあるのか不明ですが、近年の外部用の多用されている塗料では、一般的に塗替え周期を10~15年程度とされていることから、戦時機材の数年間運用で白濁化が目立つ程の劣化は無かったと私も思います。この点で本文の「白濁化」表現は、誤解を招く恐れがあると思いますので、一部修正してみました。
三菱製零戦のカウル色(濃紺)については、残された当時の撮影写真で32型と22型に多く見られることから、退色ではなく一時的に使用された塗料品質の違い(製造メーカーが異なる、若しくは顔料色等の異なる塗料)ではないかと考えています。いずれにしても、情報が少なく憶測の域から出ませんが・・・。
ご返信ありがとうございました。
映画監督の片渕氏(+東大文化財研)によると黒の顔料のカーボンブラックの発色の違いで、違う物が混ぜられているわけではないのだそうです。カーボンブラックは平たく言うと煤のことなので、青い反射が強く出るのはちょっと想像し難いのですが。
三菱の作成した零式艦戦取扱説明書の表紙写真(一一型)のカウルなどもかなり白っぽく写っていて、その一方で一一型でも真っ黒に写っているものもあります。三菱の工場ではかなり艶消しで塗っていたので新しいうちは青白く見えた(ワックス掛けすると真っ黒に見えるようになる)あたりを想像しています。
soundonly2様
再コメントを頂きありがとうございます。
零戦のカウル色(濃紺)について、貴重な情報を頂きありがとうございます。
非常に勉強になります。
私は、青い反射が強く出る現象について、黒色顔料となったカーボンブラック(煤)の原料が影響していると考えています。
例えば、当時でも国内で生産されていて、かつ、比較的手に入りやすい黒色顔料が使用された製品の一つに「墨」が挙げられます。この「墨」の原料に使われる煤には、油煙・松煙・改良煤煙の3種類があり、その煤から作られる墨をそれぞれ「油煙墨」「松煙墨」「改良煤煙墨」と呼ばれています。因みに「油煙」とは、菜種油などの植物油を燃やして生成する煤、「松煙」とは、松の枝や皮を燃やして生成する煤、そして、「改良煤煙」とは、石油などの鉱物油などを燃やして生成する煤とのこと。
「油煙墨」の特徴は、濃墨では黒色ですが、淡墨では赤味を帯びた茶系となります。次に「松煙墨」の特徴ですが、古くなるほど黒系から青系に変化していくといわれています。最後に現代では比較的実用墨や普及品に多く使用される「改良煤煙墨」の特徴は、松煙墨や油煙墨と比較すると単純に“黒い”とのことです。
上記3つの原料の中で、戦前・戦中における戦略物資(アルミ材や燃料など)に影響を与えない原料について考えると、可能性が高いものは、木材の「松」かと考えます。想像の域を出ないことを前置きし、零戦のカウル色塗料の顔料の原料に「松煙」、又は類似原料を使っていたのであれば、”青味”のある黒色の説明は出来るかと考えています。
身近な例として、模型カラーのクレオス・ブラック(C02)と黄橙色(C58)を混色すると、青味要素が無いのに緑系色になります。